日本最古の住宅 法隆寺伝法堂

 アテネ・ローマを訪ねると街のあちこちに古代神殿の遺跡がある。名残を僅かに留めている遺跡が殆どだが、パルテノン神殿のように2500年の歳月を経ているにも拘らずドリア式の石柱が完璧な状態で残っている遺跡もある。
 西暦118年にハドリアヌス帝が再建したローマのパンテオンも当時のオリジナルな姿を完璧に残している。長い年月に耐えたことに感動するが、科学的に考察すれば現存している理由は、「地震が発生しない」と「石造建築物」という2点に尽きる。

 一方、我国は地中海沿岸諸国とは対照的に「地震多発地帯」であるうえ、殆どが「木造建築物」のため地震や火災等の被害を受けやすい。したがって法隆寺のように1300年前の飛鳥時代の木造建築物が残るのは奇跡と呼んで差し支えない。
 幸いだったのは宗教施設のため郊外に建っていたこと。大勢の人々が生活する都市では火災の発生は不可避である。加えて消防体制が皆無なため一旦燃え上がれば灰燼(かいじん)に帰すのは時間の問題であった。

 飛鳥時代から安土桃山時代に至るまでの約1000年間、この時代に建てられた住宅で現代に残るのは、たった1件という数字が厳しい現実を如実に物語っている。唯一の例外、それが法隆寺伝法堂(でんぽうどう)である。
 法隆寺発行の『法隆寺畧縁起カタログ』では「この堂は聖武天皇の夫人でありました橘古那可智(たちばなのこなかち)の住宅を仏堂に改造したものです・・・・」と解説している。
 建物の移築は739(天平11)年頃。寺の財産を記した『法隆寺資材帳』によると、仏堂に適するよう長手方向に拡張して左右対称の平面へ、妻側の垂木(たるき)を一重から二重へ、檜皮葺(ひはだぶき)を瓦葺へと変えている。これ以外は手を加えていないので床は高床式で板敷ということになる。

 当時の住宅は寝殿造なので内部は間仕切りのない大空間が特徴である。生活ぶりは正倉院に残る装飾品や生活道具、および源氏物語絵巻等から類推する以外に術はない。
 まず開口部であるが外側に格子の裏に板を貼った蔀(しとみ)、内側に古代版シェードと呼ぶべき御簾(みす)を吊っていた。床は板敷の上に畳や染色した色氈(しきせん)や生成りの白氈(はくせん)、花模様を象嵌(ぞうがん)手法で描いた花氈(かせん)を部分的に敷いた。白氈は法隆寺にも現存していて、実物が宝物館に展示されている。
 そして祈祷や日常生活に必要な厨子(ずし)・二階棚(にかいだな)・衣架(いか)・机等も置いた。大部屋を仕切る場合は移動式カーテンとも呼べる几帳(きちょう)を用いた。これらを作法に従って配置することを室礼(しつらい)と呼ぶ。シンプルであるが、素材や色彩等を替えることで季節感を演出した。

 江戸時代初期の模写だが、現代に伝わる平安時代の宮中儀式などを描いた『年中行事絵巻』には、現代の日本人が忘れている「住まいの衣替え」が描かれている。この習慣は江戸時代まで伝わったが、明治の文明開化により忘れ去られてしまった。
 しかし物質的に恵まれた現代人よりも、奈良・平安時代の人達の方が四季の移ろいを楽しみ、季節感を大切にした精神的に豊かな生活をエンジョイしていたようだ。生活ルネッサンスという観点から「住まいの衣替え」を復活させたいものである。

 

 写真:法隆寺の伝法堂